江戸・本所
低禄の幕臣家から蘭学へ進む
辞書の筆写と私塾を通じて、外国情報を自力で得る道をつくった。
人物を知る
勝海舟は、江戸の幕臣家に生まれ、蘭学と海軍技術を学んだ政治家です。長崎海軍伝習所、咸臨丸の渡米、神戸海軍操練所を通して航海と人材育成に携わり、戊辰戦争では西郷隆盛との交渉によって江戸城総攻撃の回避に関わりました。明治期には旧幕臣の救済と記録の保存にも力を注ぎました。活動の舞台は江戸・本所、長崎・江戸、太平洋・サンフランシスコ、神戸に及びました。1823-50から1868-99までの経歴には、当時の政治制度、社会、生活環境の変化が重なっています。
軌跡
江戸・本所
辞書の筆写と私塾を通じて、外国情報を自力で得る道をつくった。
長崎・江戸
船、測量、機関、砲術を組織として運用する技術を得た。
太平洋・サンフランシスコ
米海軍の支援も受け、成功と日本海軍の未熟さを同時に見た。
神戸
幕府の枠を越える教育構想は警戒され、操練所は閉鎖された。
宮島
幕府の威信より戦争被害を止める現実的判断を選んだ。
江戸・赤坂
西郷との会談を含む複数の交渉と市中対策で開城条件を整えた。
静岡・東京・洗足池
徳川家と旧幕臣の処遇に関わり、談話と文書を残して東京で死去した。



東京都
本所の幕臣屋敷から赤坂の交渉、洗足池の別邸まで、勝の生涯の基点が重なる都市。
勝海舟
住所東京都墨田区・港区・大田区
周辺
長崎県長崎市
オランダ人教官から航海、測量、機関、砲術を学んだ幕府海軍教育の場。
勝麟太郎
住所長崎県長崎市出島町周辺
周辺
兵庫県神戸市
坂本龍馬らを含む諸藩の若者へ航海術を教え、日本全体の海軍を構想した場所。
勝海舟
住所兵庫県神戸市中央区新港町周辺
周辺
特徴

勝は禄の少ない幕臣の家で育った。高価な蘭学辞書を買えず、借りた辞書を二部筆写して一部を売り、学費にしたとされる。語学は教養ではなく、外国情報へ届くための手作業だった。勝は文政六年(一八二三)、江戸本所の小普請組の家に生まれた。蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』を借りて二部筆写し、一部を売ったという逸話は、刊本の少ない蘭学が紙、墨、夜間の筆写、貸借関係に支えられたことを伝える。逸話の細部は後年の談話とも照合する。

長崎海軍伝習所では、船を動かす航海、測量、機関、砲術、規律を体系として学んだ。個人の剣技ではなく、異なる技能を持つ人間を一隻にまとめる発想が育った。安政二年(一八五五)に開かれた長崎海軍伝習所で、航海術、測量、造船、機関、砲術を学んだ。オランダ人教官、伝習生、通訳が同じ船と教本を共有し、当直表や航海日誌に従う経験は、個人の蘭学を幕府海軍の組織運営へ変えた。

一八六〇年、咸臨丸で渡米した。航海には米海軍士官ブルックらの支援があり、日本人だけの偉業と単純化できない。成功と未熟さを同時に経験し、外国との協力を現実の技術として知った。万延元年(一八六〇)、咸臨丸で太平洋を渡りサンフランシスコへ到着した。航海には艦長勝だけでなく、木村喜毅、福沢諭吉、日本人乗組員と米海軍士官ブルックらが関わった。荒天時の操船や測位を含め、単独の日本人航海成功という物語とは異なる共同作業だった。
さらに知る

勝は幕府の施設でありながら、坂本龍馬ら諸藩・脱藩の若者も集めた。短期間で閉鎖されたが、海軍を幕府一組織ではなく日本全体の防備として考える構想が形になった。文久三年(一八六三)に神戸海軍操練所の準備を進め、幕臣だけでなく坂本龍馬ら諸藩・脱藩の若者を集めた。翌年の政変で勝が罷免され施設も閉鎖へ向かったため、全国海軍構想は制度として定着せず、人材と知識が別組織へ散った。

第二次長州征討で幕府側が崩れるなか、勝は宮島で長州側と休戦を交渉した。上位者の威信を守るより損害を止める判断は、江戸開城交渉の前段となった。慶応二年(一八六六)、第二次長州征討で幕府軍が各地で敗れるなか、勝は宮島で長州側の広沢真臣らと休戦を交渉した。将軍家茂の死と撤兵方針を受けた交渉であり、勝一人の和平思想だけでなく、軍事的敗勢と幕府内の決定が背景にあった。

西郷隆盛との会談だけで無血開城が決まったのではなく、山岡鉄舟の事前交渉、徳川慶喜の処遇、市中警備、退避策などが重なった。維新後も徳川家と旧幕臣の移住・生活を支え、後年は記録と談話を残した。慶応四年(一八六八)の江戸開城では、西郷隆盛との会談以前に山岡鉄舟が条件を伝え、徳川慶喜の処遇、武器引渡し、市中警備を詰めた。維新後は静岡へ移った徳川家と旧幕臣の生活・授産にも関わり、交渉の結果を人々の移住と生計へつなげた。
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