人物を知る

松平頼徳

宍戸藩 / 1831-1864

松平頼徳を、天狗党鎮圧に失敗して切腹した宍戸藩主という結論からではなく、養嗣子の系図と継目文書、一万石の領分図、江戸常住と宍戸陣屋を結ぶ村方帳・飛脚包、徳川慶篤名代の委任状と行列帳、閉ざされた水戸城門と差し戻された嘆願書、那珂湊の戦場図・火薬・薬箱・糧袋、松平万次郎邸の取調書・竹の弓・処分状・養福寺殉難碑から見る。頼徳本人、同行した大発勢、天狗党を同一集団として扱わない。

軌跡

松平頼徳の軌跡

江戸時代
天保101839天保–文久1839–64元治11864.8頃元治11864.8–9元治11864.9元治11864.10
1

江戸・宍戸

養嗣子として宍戸松平家一万石を継ぐ


系図、継目願、幕府承認を経て家督を相続し、水戸御連枝として本家と幕府の双方へ責任を負う。 松平頼徳のこの時期は、舞台となった江戸・宍戸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 頼徳は宍戸松平家の養嗣子となり、先代に嗣子がないまま没した天保十年(一八三九)に家督を継いだ。

2

江戸・宍戸陣屋

常府制の江戸屋敷と宍戸陣屋を文書で結ぶ


藩主は江戸に住み、陣屋役人が村方・年貢を扱う。飛脚、帳簿、役印が一万石の遠隔統治を支える。 松平頼徳のこの時期は、舞台となった江戸・宍戸陣屋の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 宍戸松平家は藩主が江戸に常住する常府制をとり、宍戸には旧城本丸跡の陣屋を置いて地域行政を担わせた。

3

江戸・宍戸→水戸

徳川慶篤の名代として水戸へ向かう


内乱収拾の公式使節だが、多数の尊攘派が同行する大発勢となり、目的の異なる人々を抱える。 松平頼徳のこの時期は、舞台となった江戸・宍戸→水戸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 元治元年(一八六四)、水戸藩主徳川慶篤は幕府の要請も受け、支藩主頼徳を自らの名代として水戸へ派遣した。

3

水戸城下

水戸城への入城を拒否される


名代状と嘆願が門を開けず、公式な調停者としての立場が軍事対立の中で失われていく。 松平頼徳のこの時期は、舞台となった水戸城下の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 元治元年(一八六四)、水戸藩主徳川慶篤は幕府の要請も受け、支藩主頼徳を自らの名代として水戸へ派遣した。

4

那珂湊

那珂湊の戦闘と補給崩壊に巻き込まれる


港と町を舞台に火薬、食糧、医療、住居を消耗する戦闘となり、頼徳一行は追討側から敵視される。 松平頼徳のこの時期は、舞台となった那珂湊の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 頼徳一行が水戸へ達しても、諸生党側が占める水戸城は入城を認めなかった。

1

幕府軍拘禁下

切腹を命じられ宍戸藩も改易される


松平万次郎邸で処分されたと伝わる。日付差を残し、家臣処刑、1868年再興、殉難碑まで含める。 松平頼徳のこの時期は、舞台となった幕府軍拘禁下の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 頼徳は宍戸松平家の養嗣子となり、先代に嗣子がないまま没した天保十年(一八三九)に家督を継いだ。

1234
日本地図
1
2
3
4

特徴

松平頼徳をつくったもの

小さな支藩の家督を養子縁組と幕府承認が支えるをイメージした墨絵
01

養嗣子の系図

頼徳は宍戸松平家の養嗣子となり、先代に嗣子がないまま没した天保十年(一八三九)に家督を継いだ。系図、養子願、継目願、相続許可、役印、刀、一万石の領分図、文書箪笥は、藩主の地位が血縁だけでなく水戸本家、幕府、家臣団の承認手続きで成立したことを示す。宍戸藩は水戸藩の御連枝であり、独立した一万石の藩であると同時に、本家の政治危機から離れられない位置にあった。この二重性が二十五年後の名代派遣の前提となる。

江戸常住の藩主と領地の役人が文書で一万石を統治するをイメージした墨絵
02

宍戸陣屋の村方帳

宍戸松平家は藩主が江戸に常住する常府制をとり、宍戸には旧城本丸跡の陣屋を置いて地域行政を担わせた。村方帳、年貢割付、米枡、算盤、蔵の鍵、役印、領内村図、訴願、江戸へ送る飛脚包は、藩政が遠隔地の判断と現地実務の往復で動いたことを表す。頼徳一人が日々すべてを決めたのではなく、江戸屋敷の用人、陣屋役人、村役人、農民が記録と納付をつないだ。後の改易は家名だけでなく、この行政・雇用・年貢処理の連鎖を揺らした。

水戸本家の内乱収拾を公的な使節として引き受けるをイメージした墨絵
03

徳川慶篤名代の委任状

元治元年(一八六四)、水戸藩主徳川慶篤は幕府の要請も受け、支藩主頼徳を自らの名代として水戸へ派遣した。封をした委任状、道中図、関所手形、宿割、行列帳、旗、行李、馬具は、使命が私的な天狗党支援ではなく藩主権威を示す公式使節だったことを示す。一方、行列には多くの尊攘派が同行し『大発勢』と呼ばれ、外からは武装勢力との境界が曖昧に見えた。頼徳の命令、同行者それぞれの目的、追討側の認識を分けて読む必要がある。

正規の委任状が藩内派閥の占める門を開けられないをイメージした墨絵
04

閉ざされた水戸城門

頼徳一行が水戸へ達しても、諸生党側が占める水戸城は入城を認めなかった。太い閂の城門、差し出された名代状、返された嘆願書、使者の記録、門外に積まれた行李、旗、炊事具は、藩主の正式な代理権より現地の軍事支配が強い状況を具体化する。大発勢に尊攘派が多数加わったことは警戒の理由になったが、頼徳本人を筑波山挙兵の天狗党員とする証拠にはならない。交渉の不成立が、鎮撫使節を一方の軍勢へ押し込む転換点となった。

政治交渉の失敗が港と町を巻き込む補給戦へ変わるをイメージした墨絵
05

那珂湊の戦場図

入城できなかった頼徳一行と尊攘派は那珂湊周辺へ移り、幕府・諸生党側との激しい戦闘に巻き込まれた。港と那珂川の戦場図、火薬樽、薬包、砲車、野戦薬箱、糧袋、壊れた倉庫、避難路は、内乱が思想の争いだけでなく港湾物流、食糧、医療、家屋、住民の安全を奪う補給戦だったことを示す。頼徳が天狗党と一体で幕府軍へ敵対したという処分側の見方と、名代として内乱を収めようとした使命の崩壊を、同じではない二つの記録として置く。

弁明の場が死罪と改易へ変わり家臣の処分まで広がるをイメージした墨絵
06

松平万次郎邸の取調書

頼徳は幕府側へ真意を弁明しようと出た後に拘束され、松平万次郎邸で切腹を命じられたと伝わる。取調書、封をした処分状、筆と硯、『竹の弓』を詠む絶命歌の紙、弓、礼装、短刀は、鎮撫の使命が賊魁視と死罪へ反転した裁断を表す。旧暦の処分日には十月一日・五日など差がある。宍戸藩は改易され家臣も多数処刑され、慶応四年に再興した。養福寺の殉難碑は頼徳だけでなく家臣六十二名を記憶し、一人の武士道美談では終わらせない。

この人物の詩