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照姫

会津藩 · 1832-1884

松平照(照姫)を、鶴ヶ城で女性五百人を指揮した姫という一場面からではなく、飯野保科家と会津松平家を結ぶ系図・養女願、中津藩への婚礼道具と離縁後の返送箱、江戸会津藩邸奥向きの鍵・衣食帳・琴・和歌、会津への総引揚げを支えた旅装、籠城中の大釜・包帯・弾丸鋳型・水桶、萱野権兵衛宛書簡と六冊の和歌集・院内御廟から見る。身分上の中心性と、多くの女性・子ども・役人による共同作業を分けて示す。

軌跡

照姫の軌跡

江戸時代明治時代
天保31832天保13頃1842頃嘉永・安政1850–55頃慶応41868.2慶応4・明治元1868.8–9明治2–171869–1884
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上総・飯野

飯野保科家に生まれる


旧暦・新暦換算で1832/1833表記がある。保科正丕の三女として、大名家の系図と家政の中で育つ。 照姫のこの時期は、舞台となった上総・飯野の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 照は上総飯野藩主保科正丕の三女として生まれ、十歳頃に会津藩主松平容敬の養女となった。

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飯野→江戸会津藩邸

松平容敬の養女となる


男子を欠く会津松平家の継承事情の中で養子縁組され、家の儀礼・教養・奥向き運営を学ぶ。 照姫のこの時期は、舞台となった飯野→江戸会津藩邸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 十八歳頃、照は豊前中津藩主奥平昌服の正室となり、数年後に離縁して江戸の会津藩邸へ戻った。

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中津・江戸

奥平昌服と婚姻し離縁後に会津藩邸へ戻る


婚礼道具と人員を伴う大名家間の移動を経験し、帰邸後は奥向きの生活と家政へ再び入る。 照姫のこの時期は、舞台となった中津・江戸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 離縁後の照は江戸会津藩邸へ戻り、容保の正室敏姫が早世した後、家中で高い身分にある女性として奥向きに関わった。

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江戸→会津

江戸総引揚げで会津へ移る


敗戦後、会津関係者と旅装・薬・寝具・帳面を運び、藩邸生活を畳んで長距離を移動する。 照姫のこの時期は、舞台となった江戸→会津の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 鳥羽伏見敗戦後の慶応四年(一八六八)二月、江戸の会津関係者は総引揚げで会津へ向かい、照も移動したとされる。

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鶴ヶ城

籠城女性の身分上の中心として共同作業を支える


約500人の婦人・子どもが炊事、看護、弾丸、消火を分担する。照の指導と全員の労働を区別して示す。 照姫のこの時期は、舞台となった鶴ヶ城の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 鳥羽伏見敗戦後の慶応四年(一八六八)二月、江戸の会津関係者は総引揚げで会津へ向かい、照も移動したとされる。

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東京・会津の記憶

書簡と和歌で死者と会津家の記憶を残す


萱野権兵衛を悼む歌や和歌集を残し、東京で没する。墓所は会津の松平家院内御廟にある。 照姫のこの時期は、舞台となった東京・会津の記憶の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 会津戦争の鶴ヶ城には約五百人の婦人・子どもが入り、照は身分上の中心・精神的支柱として女性たちをまとめたと伝わる。

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日本地図
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特徴

照姫をつくったもの

十歳頃の移動を二つの大名家の継承手続きが決めるをイメージした墨絵
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飯野保科家

照は上総飯野藩主保科正丕の三女として生まれ、十歳頃に会津藩主松平容敬の養女となった。両家をつなぐ系図、養女願、幕府への届、印、文書箱、子ども用の草履、駕籠金具は、幼い移動が本人だけの選択ではなく、男子を欠く大名家の継承と親族関係の中で決められたことを示す。富津市が公開する関係系図は、生家の保科家と養家の松平家を同時に見せる。『姫』という呼称の前に、家の将来を担う養女として登録・教育された制度を置く。

婚姻と離縁を大名家間の物と人の移動から見るをイメージした墨絵
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中津藩への婚礼道具

十八歳頃、照は豊前中津藩主奥平昌服の正室となり、数年後に離縁して江戸の会津藩邸へ戻った。蒔絵の長持、衣装、香道具、化粧具、婚礼目録、海路図、荷札、封をした返送文書は、大名家の婚姻が多量の財産、侍女、連絡、格式を伴う政治的な移動だったことを示す。離縁理由を本人の性格や身体だけへ単純化せず、子の有無や家同士の事情を含む制度として扱う。戻った箱は失敗の象徴ではなく、以後の会津家奥向きを担う生活基盤にもなった。

家政と教養を帳面と道具で持続させるをイメージした墨絵
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江戸会津藩邸奥向きの鍵

離縁後の照は江戸会津藩邸へ戻り、容保の正室敏姫が早世した後、家中で高い身分にある女性として奥向きに関わった。蔵や部屋の鍵、食料・衣服・人員の配分帳、針箱、琴、香炉、和歌短冊、硯、書状箱は、奥向きが私的な居間ではなく、多数の女性奉公人と物資を管理する組織だったことを表す。書道、礼法、香道、琴、和歌という教養も装飾ではなく、儀礼、贈答、弔意、家内秩序を運ぶ実務の言語となった。

鳥羽伏見後の政治危機を大量の旅装へ変えるをイメージした墨絵
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江戸総引揚げの道中図

鳥羽伏見敗戦後の慶応四年(一八六八)二月、江戸の会津関係者は総引揚げで会津へ向かい、照も移動したとされる。街道図、関所手形、行李、寝具、薬箱、食器、雨雪を防ぐ覆い、荷を運ぶ人馬は、政治判断が家族・奉公人・高齢者を含む長距離移動へ変わる様子を示す。照一人の帰郷ではなく、藩邸という生活組織を畳み、必要物を選び、道中の宿と安全を確保する共同作業だった。この旅装が数か月後の籠城生活にもつながる。

籠城を炊事・看護・弾薬・消火の共同作業で支えるをイメージした墨絵
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鶴ヶ城の大釜

会津戦争の鶴ヶ城には約五百人の婦人・子どもが入り、照は身分上の中心・精神的支柱として女性たちをまとめたと伝わる。大釜と米籠、配給椀、包帯、薬と湯、裂いた衣、弾丸鋳型と鉛、水桶、砲弾火災へ掛ける濡れ布団は、籠城が戦闘員だけで維持できなかったことを示す。炊事、看護、弾薬製造、消火、遺体や負傷者への対応は多くの女性・子ども・役人の共同作業であり、すべてを照一人の直接作業や命令へ集約しない。

敗戦責任を負わされた死を言葉と資料で受け止め続けるをイメージした墨絵
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萱野権兵衛宛書簡

戦後、会津藩の責任を負って処刑される萱野権兵衛へ、容保と照が送った書簡・和歌・覚が会津若松市の文化財として残る。夢か現かも分からぬほど惜しむ歌、六冊の『松平照和歌集』、硯、書状箱、香炉、位牌、院内御廟は、照の役割が籠城で終わらず、死者の名と家の記憶を言葉で保存する仕事へ続いたことを示す。忠義の美談だけで処刑を飾らず、戦争責任を一人に負わせた政治と、残された者が十六年を生きた時間を並べる。

この人物の詩