人物を知る

榎本武揚

旧幕府

榎本武揚を、箱館戦争の総裁という一場面だけでなく、江戸の測量家の家、長崎海軍伝習所、オランダの造船所と海上国際法、開陽丸を核にした艦隊移動、五稜郭での軍事占領と行政、獄中の翻訳・化学作業、樺太千島交換条約と明治政府による旧敵の再利用からたどります。敗者の英雄譚にも、近代技術者の成功譚にも寄せず、知識が戦争・降伏・外交のたびに別の意味を持った人物として描きます。

軌跡

榎本武揚の軌跡

江戸時代明治時代
天保7-安政31836-56安政3-文久21856-62文久2-慶応31862-67慶応4/明治元1868明治元-21868-69明治2-51869-72明治5-411872-1908
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江戸・下谷/長崎

測量家の幕臣家から海軍伝習所へ進む


地図と蘭学に触れ、長崎で航海・機関・砲術を一つの体系として学び始めた。 榎本武揚のこの時期は、舞台となった江戸・下谷/長崎の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 一八六二年からオランダへ留学し、造船、蒸気機関、砲術、化学、鉱物、海上国際法を学んだ。

測量道具をイメージした墨絵
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長崎・築地

海軍教育を学び、教える側へ回る


伝習所修了後、築地の軍艦操練所で幕府海軍の人材育成に携わった。 榎本武揚のこの時期は、舞台となった長崎・築地の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 榎本は江戸下谷で、測量に携わる幕臣榎本家に生まれた。

オランダ・各寄港地

開陽丸を建造し、国際法と科学を学ぶ


造船、機関、砲術、化学、鉱物、海律を学び、完成した開陽丸で世界を回って帰国した。 榎本武揚のこの時期は、舞台となったオランダ・各寄港地の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 江戸開城後、榎本は新政府への軍艦引渡しに従わず、旧幕臣らを乗せて品川沖から蝦夷地へ向かった。

オランダ造船所をイメージした墨絵
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品川・東北・江差

艦隊を率いて北へ向かい、開陽丸を失う


軍艦接収を拒んで旧幕臣と蝦夷地へ移動したが、江差沖の座礁で主力艦を失った。 榎本武揚のこの時期は、舞台となった品川・東北・江差の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 榎本は江戸下谷で、測量に携わる幕臣榎本家に生まれた。

品川沖の艦隊をイメージした墨絵
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箱館・五稜郭

仮政権を運営し、新政府軍に降伏する


軍事占領下で役職と行政を整えたが、敗北が決定的となり五稜郭を明け渡した。 榎本武揚のこの時期は、舞台となった箱館・五稜郭の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 江戸開城後、榎本は新政府への軍艦引渡しに従わず、旧幕臣らを乗せて品川沖から蝦夷地へ向かった。

五稜郭の帳簿をイメージした墨絵
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東京・牢獄

獄中で翻訳と科学記録を続け、赦免される


処刑を待つ立場から、保存された専門知識を理由に助命・再登用される側へ移った。 榎本武揚のこの時期は、舞台となった東京・牢獄の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 榎本は江戸下谷で、測量に携わる幕臣榎本家に生まれた。

獄中の翻訳帳をイメージした墨絵

北海道・ロシア・東京

外交と技術行政で明治政府に仕える


樺太千島交換条約を締結し、複数の大臣職と産業・農業教育を経て東京で死去した。 榎本武揚のこの時期は、舞台となった北海道・ロシア・東京の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 赦免後は開拓使、駐露公使となり、一八七五年に樺太千島交換条約を結んだ。

千島地図をイメージした墨絵
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日本地図
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特徴

榎本武揚をつくったもの

幕臣の家から海軍という複合技術へをイメージした墨絵
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測量道具

榎本は江戸下谷で、測量に携わる幕臣榎本家に生まれた。昌平坂学問所などを経て長崎海軍伝習所へ入り、航海、測量、機関、砲術を学んだ。船は一人の武勇では動かず、地図、計算、機械、規律を持つ人々を組み合わせる必要がある。この組織技術が榎本の判断の基礎になった。

開陽丸の建造と戦争を縛る法を学ぶをイメージした墨絵
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オランダ造船所

一八六二年からオランダへ留学し、造船、蒸気機関、砲術、化学、鉱物、海上国際法を学んだ。幕府発注の開陽丸の建造を監督し、完成船で帰国した。技術と国際法を同時に学んだ点が重要で、後の箱館でも、戦争を力だけでなく交戦規則と外交の問題として扱おうとした。

軍艦を渡さず、北へ移す賭けをイメージした墨絵
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品川沖の艦隊

江戸開城後、榎本は新政府への軍艦引渡しに従わず、旧幕臣らを乗せて品川沖から蝦夷地へ向かった。これは単なる忠義ではなく、艦隊と技術者を基礎に北方開拓と旧幕臣の居場所を確保する計画だった。しかし主力艦開陽丸は江差沖で座礁沈没し、海軍力を前提にした構想は早くも崩れた。

軍事占領の中で行政を試み、降伏するをイメージした墨絵
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五稜郭の帳簿

旧幕府脱走軍は無人の五稜郭を占拠し、幹部の選出、役職、徴税、外国公館との交渉を行った。ただし住民全体が参加する現代的な『共和国』ではなく、軍事占領下の仮政権だった。砲の射程不足、兵糧、艦船喪失が重なり、榎本は一八六九年五月に降伏して要塞を明け渡した。

敗者の知識を処刑から切り離すをイメージした墨絵
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獄中の翻訳帳

東京へ護送された榎本は投獄され、処刑の可能性にさらされた。獄中でもオランダ語資料の翻訳、化学や鉱物の記録を続け、海律書などの知識を失わせないようにした。黒田清隆らが能力の保存を求めたことで助命・赦免される。降伏後の学術作業が、旧敵を国家資源へ変える根拠となった。

境界交渉と技術行政へ再配置されるをイメージした墨絵
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千島地図

赦免後は開拓使、駐露公使となり、一八七五年に樺太千島交換条約を結んだ。日本は樺太の権利をロシアへ譲り、千島列島を受け取った。のち海軍、逓信、農商務、外務などを歴任し、鉱山・農業教育にも関わった。再登用は和解だけでなく、明治政府が希少な技術と外国語能力を必要とした結果だった。

この人物の詩