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伊藤博文

長州藩

伊藤博文は、長州の農村に生まれ、松下村塾で学んだ後、長州五傑の一人として英国へ渡った政治家です。攘夷運動から開国・制度改革へ転じ、岩倉使節団、憲法調査、内閣制度の創設に関わり、初代内閣総理大臣となりました。韓国統監として韓国の主権を制限する政策を進め、1909年にハルビンで暗殺されました。活動の舞台は束荷・萩、萩・江戸、横浜・ロンドン・下関、兵庫・東京・欧米に及びました。1841-57から1905-09までの経歴には、当時の政治制度、社会、生活環境の変化が重なっています。

軌跡

伊藤博文の軌跡

江戸時代明治時代
1841-57天保12-安政41857-62安政4-文久21863-64文久3-元治元1868-78明治元-111881-89明治14-221890-1905明治23-381905-09明治38-42
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束荷・萩

農家に生まれ、中間の家へ移る


父の養子入りで伊藤姓となり、萩の低い武士身分から学びと奉公の道へ入った。

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萩・江戸

松下村塾から攘夷活動へ進む


吉田松陰の塾に学び、長州の活動家と結び、英国公使館焼き討ちにも参加した。

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横浜・ロンドン・下関

長州五傑として密航し、開国へ転じる


英国の工業力を見て帰国し、四国連合艦隊との戦争回避を説き、敗戦後の交渉を助けた。

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兵庫・東京・欧米

行政実務と岩倉使節団で地位を築く


港湾、貨幣、工業などを扱い、使節団副使を経て大久保利通の後継へ進んだ。

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欧州・東京

憲法を調査し、内閣制度をつくる


欧州調査後に複数の起草者と帝国憲法をまとめ、初代内閣総理大臣となった。

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東京・下関・各地

政党・議会・戦争の政治を動かす


四度の組閣、政友会、日清講和などを通じ、憲法下の政治と帝国拡張を主導した。

韓国・ハルビン

韓国統監となり、ハルビンで暗殺される


韓国の外交権と行政を統監府へ集め、退任後に安重根の銃撃で死去した。

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日本地図
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特徴

伊藤博文をつくったもの

農家から下級武士の家へ移るをイメージした墨絵
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束荷の生家

伊藤は熊毛郡束荷村の農家、林家に生まれた。父十蔵が萩藩の中間である伊藤家の養子となり、一家で小さな旧宅へ移った。最初から武士社会の中心にいたのではなく、奉公を伴う低い身分へ一段ずつ入った経験が、家柄より人と仕事をつないで進む『周旋』の感覚を育てた。

学びが攘夷の実行へ変わるをイメージした墨絵
02

松下村塾の机

一八五七年、伊藤は松下村塾で吉田松陰に学び、木戸孝允や高杉晋作らの活動へ接近した。学問は身分を越える足場になった一方、尊王攘夷は暴力にも結びつき、一八六二年の英国公使館焼き討ちに加わった。後の開国派だけを見れば、この破壊的な出発点と急な転換を見落とす。

密航で見た国力が攘夷を崩すをイメージした墨絵
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長州五傑の石炭庫

一八六三年、伊藤ら五人は国禁を破り、横浜から密航してロンドンへ向かった。石炭、蒸気船、工場、化学教育に触れ、排外の掛け声では対抗できない力の差を知る。翌年、下関攻撃の危機を聞いた伊藤と井上馨は帰国して開国を説いたが、戦争を止められず、交渉の通訳も担った。

語学と実務で国家運営を覚えるをイメージした墨絵
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港の帳簿

維新後は兵庫県知事、大蔵・工部の官僚として、港、貨幣、税、鉄道などの実務に関わった。岩倉使節団では副使として再び欧米を巡り、制度を翻訳して運用する仕事を学んだ。伊藤の上昇を支えたのは理念の独創性だけでなく、外国語と事務処理で上位者の構想を実装する能力だった。

強い君主権を持つ制度を共同起草するをイメージした墨絵
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欧州の法典

一八八二年、伊藤は欧州へ憲法調査に出て、プロイセン型の君主権の強い制度を重視した。帰国後、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らと草案を重ね、内閣制度を創設して初代首相となった。憲法は伊藤一人の作品ではなく、民権運動への対応と天皇中心の国家を両立させる共同設計だった。

制度を輸出し、韓国の主権を奪うをイメージした墨絵
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統監府の印章

日露戦争後、伊藤は初代韓国統監となった。統監府は韓国の外交権を奪い、警察、通信、鉄道、裁判などへ支配を広げた。伊藤が即時併合に慎重だったことは、韓国の主権縮小への責任を消さない。一九〇九年、ハルビン駅で韓国の独立運動家安重根に暗殺され、翌年、日本は韓国を併合した。

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