江戸・小石川水戸藩邸
水戸藩主家の三男として生まれる
江戸の藩邸で育ち、部屋住みの時期から水戸の学問と藩政課題に接した。
人物を知る
徳川斉昭は、水戸藩主として藩政改革、教育、海防、軍事技術の整備を進めた人物です。弘道館と偕楽園を設け、農政や人材育成に取り組む一方、攘夷と海防を強く主張し、幕府政治にも影響を与えました。積極的な改革は藩内外に支持と対立の双方を生み、たびたび謹慎処分を受けました。活動の舞台は江戸・小石川水戸藩邸、水戸、水戸・弘道館と偕楽園、江戸・水戸に及びました。1800から1858-60までの経歴には、当時の政治制度、社会、生活環境の変化が重なっています。
軌跡
江戸・小石川水戸藩邸
江戸の藩邸で育ち、部屋住みの時期から水戸の学問と藩政課題に接した。
水戸
財政、農村、藩士教育、産業を結び直す藩政改革へ着手した。
水戸・弘道館と偕楽園
弘道館を仮開館し、翌年には偕楽園を開いて文武と一張一弛を空間化した。
江戸・水戸
改革と軍備強化への警戒を受け、家督を譲って政治活動を制限された。
江戸・水戸・那珂湊
ペリー来航後に幕政へ関与し、沿岸警備と鉄製大砲の製造基盤を整えた。
水戸城
井伊直弼と対立し、水戸での永蟄居を命じられたまま六十一歳で没した。


茨城県水戸市
文武を学ぶ弘道館と、斉昭が藩政を担い晩年を過ごした水戸城の空間をたどる。
徳川斉昭
住所茨城県水戸市三の丸1丁目6-29
周辺
茨城県水戸市
竹林、梅林、好文亭、千波湖の眺望から、弘道館と対をなす休養の設計を歩く。
徳川斉昭
住所茨城県水戸市常磐町1丁目3-3
周辺
茨城県ひたちなか市
海防論が耐火煉瓦、炉、鋳型、鉄製大砲へ変わった製造拠点を確認する。
徳川斉昭
住所茨城県ひたちなか市栄町1丁目10周辺
周辺
特徴

天保十二年に仮開館した弘道館は、講義だけの学校ではない。正庁、教室、武術の稽古場、医学館などを広い敷地に置き、水戸藩士が文武を一体で学ぶ制度を形にした。斉昭は「弘道館賞梅花」で、雪中に先駆けて咲く梅へ好文と威武を重ねた。梅林、畳の広間、稽古道具という環境は、水戸学の言葉を身体訓練と行政実務へ接続する装置だった。

弘道館の翌年に開かれた偕楽園は、学び続けるためには心身の休養も必要だという「一張一弛」の考えを空間にした庭園である。暗い孟宗竹林を抜け、明るい梅林と千波湖の眺望へ出る順路には陰と陽の対比がある。斉昭が設計に関与した好文亭では、家臣や領内の人々が詩歌や慰安の時間を共有した。学校と庭園を対にした点が、教育を一日の生活全体として捉えた斉昭らしさを伝える。

斉昭は藩主就任時に「愛民専一」を掲げ、農政改革へ着手した。農人形の伝承では、食膳に農民の姿をした小像を置き、その笠に一箸の飯を供えて、食物を生む労を忘れないようにしたという。現在知られる木彫の民芸品は後世に展開したものなので、当時の実物と混同はできない。それでも、財政再建や倹約という政策を、毎食目に入る小さな物へ結びつけた逸話は、斉昭の統治観を具体的に考える入口になる。
さらに知る

異国船の出没が増えた日立沿岸で、斉昭は家老山野辺義観に海防を担わせ、太平洋を見渡す高台へ助川海防城を整備した。城と呼ばれても、目的は大規模な合戦より、海岸の監視、情報伝達、兵員配置の継続にある。土塁、物見櫓、番所、望遠鏡、狼煙台から海を見ると、尊王攘夷は抽象的な標語ではなく、風雨の中で水平線を見張り、船影を報告する日々の勤務でもあったことが分かる。

那珂湊反射炉は、従来の銅砲に代わる鉄製大砲を鋳造するため、安政二年に完成した。高熱を反射させる炉体には、栃木の小砂村の粘土と磐城産の燧石粉などを用いた耐火煉瓦が必要だった。南部藩士大島高任らの技術、大工棟梁飛田与七の施工、原料採取、運搬、鋳型づくりが結びついて初めて動く設備である。斉昭の海防策を一人の先見性で終わらせず、多地域の知識と労働を集めた工業事業として見せる場所だ。

ペリー来航後に幕政へ呼び戻された斉昭は、対外方針だけでなく、将軍継嗣問題と通商条約の手続きをめぐって井伊直弼と対立した。安政五年、無断登城を理由に登城停止となり、翌年には水戸での永蟄居を命じられる。封をした命令書、閉ざされた藩邸門、使われない駕籠は、政争が身体の移動と発言を制限する制度だったことを伝える。斉昭は解除を見ないまま万延元年、水戸城中で没した。
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