人物を知る

徳川斉昭

水戸藩

徳川斉昭を、強烈な尊王攘夷論者という一語だけで捉えず、弘道館の教室と武館、偕楽園の竹林と梅林、食膳の農人形、太平洋を望む海防城、那珂湊の反射炉、閉ざされた門と命令文書からたどる。教育、休養、農政、警戒、製造、処分という異なる仕組みを実物に戻すと、斉昭の思想が領民の日常と幕末政治の双方へ及ぼした力と摩擦が見える。

軌跡

徳川斉昭の軌跡

江戸時代
寛政121800文政121829天保12-131841-42弘化元1844嘉永6-安政21853-55安政5-万延元1858-60

江戸・小石川水戸藩邸

水戸藩主家の三男として生まれる


江戸の藩邸で育ち、部屋住みの時期から水戸の学問と藩政課題に接した。 徳川斉昭のこの時期は、舞台となった江戸・小石川水戸藩邸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 天保十二年に仮開館した弘道館は、講義だけの学校ではない。

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水戸

第九代藩主となり、愛民専一を掲げる


財政、農村、藩士教育、産業を結び直す藩政改革へ着手した。 徳川斉昭のこの時期は、舞台となった水戸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 天保十二年に仮開館した弘道館は、講義だけの学校ではない。

農人形をイメージした墨絵
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水戸・弘道館と偕楽園

学問の場と休養の庭園を対にする


弘道館を仮開館し、翌年には偕楽園を開いて文武と一張一弛を空間化した。 徳川斉昭のこの時期は、舞台となった水戸・弘道館と偕楽園の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 弘道館の翌年に開かれた偕楽園は、学び続けるためには心身の休養も必要だという「一張一弛」の考えを空間にした庭園である。

弘道館の正庁をイメージした墨絵
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江戸・水戸

幕府から隠居と謹慎を命じられる


改革と軍備強化への警戒を受け、家督を譲って政治活動を制限された。 徳川斉昭のこの時期は、舞台となった江戸・水戸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 天保十二年に仮開館した弘道館は、講義だけの学校ではない。

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江戸・水戸・那珂湊

海防参与となり、反射炉建設を進める


ペリー来航後に幕政へ関与し、沿岸警備と鉄製大砲の製造基盤を整えた。 徳川斉昭のこの時期は、舞台となった江戸・水戸・那珂湊の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 斉昭は藩主就任時に「愛民専一」を掲げ、農政改革へ着手した。

那珂湊反射炉をイメージした墨絵
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水戸城

条約と継嗣をめぐり永蟄居となる


井伊直弼と対立し、水戸での永蟄居を命じられたまま六十一歳で没した。 徳川斉昭のこの時期は、舞台となった水戸城の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 天保十二年に仮開館した弘道館は、講義だけの学校ではない。

藩邸の閉ざされた門をイメージした墨絵
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日本地図
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特徴

徳川斉昭をつくったもの

文と武を同じ敷地で鍛えるをイメージした墨絵
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弘道館の正庁

天保十二年に仮開館した弘道館は、講義だけの学校ではない。正庁、教室、武術の稽古場、医学館などを広い敷地に置き、水戸藩士が文武を一体で学ぶ制度を形にした。斉昭は「弘道館賞梅花」で、雪中に先駆けて咲く梅へ好文と威武を重ねた。梅林、畳の広間、稽古道具という環境は、水戸学の言葉を身体訓練と行政実務へ接続する装置だった。

学業の緊張に休息を組み合わせるをイメージした墨絵
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偕楽園の竹林

弘道館の翌年に開かれた偕楽園は、学び続けるためには心身の休養も必要だという「一張一弛」の考えを空間にした庭園である。暗い孟宗竹林を抜け、明るい梅林と千波湖の眺望へ出る順路には陰と陽の対比がある。斉昭が設計に関与した好文亭では、家臣や領内の人々が詩歌や慰安の時間を共有した。学校と庭園を対にした点が、教育を一日の生活全体として捉えた斉昭らしさを伝える。

農民の労を毎日の食事に置くをイメージした墨絵
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農人形

斉昭は藩主就任時に「愛民専一」を掲げ、農政改革へ着手した。農人形の伝承では、食膳に農民の姿をした小像を置き、その笠に一箸の飯を供えて、食物を生む労を忘れないようにしたという。現在知られる木彫の民芸品は後世に展開したものなので、当時の実物と混同はできない。それでも、財政再建や倹約という政策を、毎食目に入る小さな物へ結びつけた逸話は、斉昭の統治観を具体的に考える入口になる。

攘夷論を沿岸監視の勤務に変えるをイメージした墨絵
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助川海防城の土塁

異国船の出没が増えた日立沿岸で、斉昭は家老山野辺義観に海防を担わせ、太平洋を見渡す高台へ助川海防城を整備した。城と呼ばれても、目的は大規模な合戦より、海岸の監視、情報伝達、兵員配置の継続にある。土塁、物見櫓、番所、望遠鏡、狼煙台から海を見ると、尊王攘夷は抽象的な標語ではなく、風雨の中で水平線を見張り、船影を報告する日々の勤務でもあったことが分かる。

海防の危機感を巨大な製造設備にするをイメージした墨絵
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那珂湊反射炉

那珂湊反射炉は、従来の銅砲に代わる鉄製大砲を鋳造するため、安政二年に完成した。高熱を反射させる炉体には、栃木の小砂村の粘土と磐城産の燧石粉などを用いた耐火煉瓦が必要だった。南部藩士大島高任らの技術、大工棟梁飛田与七の施工、原料採取、運搬、鋳型づくりが結びついて初めて動く設備である。斉昭の海防策を一人の先見性で終わらせず、多地域の知識と労働を集めた工業事業として見せる場所だ。

政治対立が移動禁止と沈黙に変わるをイメージした墨絵
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藩邸の閉ざされた門

ペリー来航後に幕政へ呼び戻された斉昭は、対外方針だけでなく、将軍継嗣問題と通商条約の手続きをめぐって井伊直弼と対立した。安政五年、無断登城を理由に登城停止となり、翌年には水戸での永蟄居を命じられる。封をした命令書、閉ざされた藩邸門、使われない駕籠は、政争が身体の移動と発言を制限する制度だったことを伝える。斉昭は解除を見ないまま万延元年、水戸城中で没した。

この人物の詩