浦賀奉行所・浦賀港
人物を知る
中島三郎助
中島三郎助を、黒船に乗った与力、あるいは箱館で息子と討死した旧幕臣という二つの場面だけで閉じない。浦賀奉行所の船改め帳・算盤・望遠鏡・潮汐図、黒船の砲架・蒸気機関・船内観察記録、鳳凰丸の船体線図・雛形・船台・木工具、長崎海軍伝習所と軍艦操練所の海図・羅針盤・砲術器具、木鶏の硯・連句短冊・大衆帰本塚、千代ヶ岡陣屋の土塁・蛇籠・大砲・父子三人分の装具から見る。技術を個人の発明にせず、通詞、奉行所役人、船大工、職人、伝習生、息子たちとの共同作業と選択も残す。
軌跡
中島三郎助の軌跡
浦賀沖・久里浜
堀達之助らと黒船へ乗り船内と大砲を詳しく調べる
応接の礼式と同時に、砲架、蒸気機関、甲板、索具を測り、後の造船に使える観察記録へ変える。 中島三郎助のこの時期は、舞台となった浦賀沖・久里浜の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 嘉永六年(一八五三)、中島は応接掛与力として通詞の堀達之助らと艦へ乗り、米側と折衝しながら船内を調べた。
浦賀造船所
浦賀の職人たちと洋式軍艦鳳凰丸を建造する
線図、雛形、木材、鉄物、綱具、砲配置を調整し、黒船観察を実物の船体へ移す。 中島三郎助のこの時期は、舞台となった浦賀造船所の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 幕府が浦賀に洋式帆船建造を命じると、中島は黒船で得た知見を船体線図、縮尺雛形、肋材、竜骨、継手、帆柱、綱具、大砲配置へ翻訳した。
長崎・江戸・浦賀
浦賀・大衆帰本塚
木鶏の号で俳諧に加わり町の石碑へ筆跡を残す
大工棟梁、奉行、篆額者と作った碑が、浦賀俳壇と町人社会に結ばれた書き手の面を伝える。 中島三郎助のこの時期は、舞台となった浦賀・大衆帰本塚の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 中島は「木鶏」を号とし、漢詩、和歌、俳諧に親しみ、幕末浦賀の俳壇に加わった。
箱館・千代ヶ岡陣屋
神奈川県横須賀市
船改め帳と沿岸警備の実務を知る港
奉行所建物は現存しない。跡地と郷土資料館を入口に、廻船の入港、積荷、通行、海防を記録した与力の仕事をたどる。
中島三郎助
住所神奈川県横須賀市浦賀7丁目周辺
周辺
- 浦賀奉行所跡江戸湾の海の関所を担った役所跡。
- 浦賀コミュニティセンター分館奉行所・鳳凰丸・中島関係資料を調べる入口。
神奈川県横須賀市
黒船来航の海岸と艦隊を観察する視点
来航記念の現地。艦上交渉の一点を示す場所ではなく、浦賀沖の艦隊、蒸気船、大砲を奉行所側が観察した海域を考える補助地点。
中島三郎助
住所神奈川県横須賀市久里浜7丁目
周辺
- ペリー記念館来航資料と日米双方の記録を比較する。
- 久里浜海岸艦隊来航時の海と陸の距離を確かめる。
神奈川県横須賀市
鳳凰丸から続く浦賀の造船史を見る場所
現存ドックは鳳凰丸の船台ではなく後世の施設。船大工、木材、工具、設計、組立という浦賀の造船史を重ねて見る。
中島三郎助
住所神奈川県横須賀市浦賀4丁目
周辺
- 浦賀レンガドック明治期のドック。鳳凰丸船台そのものではない。
- 愛宕山公園招魂碑建立が後の造船所構想につながった場所。
長崎県長崎市
航海・機関・砲術を体系として学び教えた港
船模型、海図、羅針盤、測角器、砲術器具から、経験知を幕府海軍の教育へ組み替えた過程をたどる。
中島三郎助
住所長崎県長崎市江戸町周辺
周辺
- 長崎海軍伝習所跡幕府の体系的な海軍教育の跡。
- 出島海外知識・器具・通訳が交差した港の構造を見る。
神奈川県横須賀市
木鶏の筆跡と浦賀の俳諧文化を残す石碑
大衆帰本塚は中島の筆致を刻み、愛宕山の招魂碑は後世の顕彰を示す。作品と記憶を同一視せず歩く。
中島三郎助
住所神奈川県横須賀市西浦賀・東浦賀周辺
周辺
- 大衆帰本塚中島の筆致を石に刻んだ碑。
- 中島三郎助招魂碑榎本武揚の篆額を持つ後世の顕彰碑。
北海道函館市
父子が最後の戦いを選んだ陣屋
弁天岬台場とは別の陣地。1869年5月16日、中島父子らが戦い、旧幕府脱走軍側の敗北が決定的になった場所。
中島三郎助
住所北海道函館市中島町周辺
周辺
- 千代ヶ岡陣屋跡父子三人の最期をたどる中心地点。
- 五稜郭戦争全体の推移と降伏までを補って読む。
特徴
中島三郎助をつくったもの

浦賀奉行所
浦賀奉行所与力の家に生まれた中島の日常は、異国船来航から突然始まったのではない。江戸湾を出入りする廻船の船名、船主、積荷、通行証文、入出港時刻を船改め帳と廻船台帳に写し、算盤で数量を照合し、役印を押し、望遠鏡と沿岸図で海上を監視する仕事が先にあった。奉行、組頭、与力、同心、通詞、船番所、船頭の記録がつながって初めて港は動く。何でも見て測り、書き留める姿勢は、後の黒船観察や造船を支えた実務の型だった。
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黒船船内
嘉永六年(一八五三)、中島は応接掛与力として通詞の堀達之助らと艦へ乗り、米側と折衝しながら船内を調べた。砲の口径と砲架、甲板配置、帆装、蒸気煙突、機関部への導線、短艇、索具、測深具を、手控え、寸法取り、見取図に置き換える場面である。米側記録が執拗な観察者として描くほど、彼は礼式だけで終えなかった。ただし成果は一人の眼力ではない。通訳、同行役人、船員、米側士官が同じ狭い甲板にいた交渉と情報収集だった。
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鳳凰丸
幕府が浦賀に洋式帆船建造を命じると、中島は黒船で得た知見を船体線図、縮尺雛形、肋材、竜骨、継手、帆柱、綱具、大砲配置へ翻訳した。船台に並ぶ木材、墨壺、曲尺、釿、鑿、錐、滑車は、鳳凰丸が個人の発明ではなく、浦賀奉行所、船大工、鍛冶、綱職人、材木商の共同製作だったことを示す。現在の浦賀レンガドックは後世の施設で鳳凰丸の船台ではないが、招魂碑建立を機に造船所構想が語られた経緯まで含め、浦賀の造船史をつなぐ場所になる。
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長崎海軍伝習所
鳳凰丸建造後の中島は、長崎海軍伝習所での学びや幕府の軍艦操練に関わり、航海、造船、砲術の経験を教育へ接続した。海図、羅針盤、測角器、船模型、黒板、砲身、照準器、火薬秤、装薬筒を並べると、海軍技術が操船だけでなく数学、天測、機関、砲術、火薬調合、号令を共有する体系だったと分かる。長崎の伝習所と江戸の軍艦操練所は同じ建物ではなく、オランダ人教官、幕臣伝習生、各藩出身者が知識を移した複数の場として区別する。
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連句短冊
中島は「木鶏」を号とし、漢詩、和歌、俳諧に親しみ、幕末浦賀の俳壇に加わった。硯、筆、連句の短冊、句帳、白牡丹の花器は、命令書や技術図面とは異なる言葉の共同作業を示す。元治元年の大衆帰本塚には、浦賀奉行所の大工棟梁・川島平吉の発案、奉行の賛同、大畑春国の篆額、中島の筆という複数の手が刻まれた。辞世とされる句の帰属を断定するのでなく、柔らかな筆跡と町の俳諧文化が、後世の勇壮な最期像だけでは見えない中島を残したと読む。
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千代ヶ岡陣屋
明治二年五月十五日に弁天岬台場が降伏した翌十六日、千代ヶ岡陣屋では中島と長男恒太郎、次男英次郎らが最後の戦いを選んだ。土塁、蛇籠、大砲、砲弾、弾薬箱、小銃、銃剣、三人分の胴乱と履物を置くと、抽象的な忠節ではなく、限られた兵力と物資の陣地が見える。函館市史が記すように陣屋は壊滅し、脱走軍側の敗北が決定的になった。父の意志だけで息子たちの選択を消さず、弁天岬台場と千代ヶ岡を混同せずに終幕を描く。
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