会津若松
会津藩士飯沼家の次男として生まれる
山川健次郎らと親族関係を持つ藩士家庭で育ち、日新館教育へ進んだ。 飯沼貞吉のこの時期は、舞台となった会津若松の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 会津藩士の子は十歳になると藩校日新館へ進み、漢学だけでなく剣術、弓術、水泳、天文学、医学などを学んだ。
人物を知る
飯沼貞吉を「飯盛山でただ一人生き残った少年」という一日だけに閉じ込めず、日新館の学び、白虎隊の銃と弾薬、戸ノ口原の泥道、用水洞門の冷水、飯盛山から見た黒煙、そして明治の電信機と札幌の電話交換機からたどる。十五歳で死に近づいた貞吉が、改名後は通信技術者として約六十年を生きた事実まで見渡すと、生存は悲劇の例外ではなく、新しい社会を支える長い仕事の出発点になる。
軌跡
会津若松
山川健次郎らと親族関係を持つ藩士家庭で育ち、日新館教育へ進んだ。 飯沼貞吉のこの時期は、舞台となった会津若松の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 会津藩士の子は十歳になると藩校日新館へ進み、漢学だけでなく剣術、弓術、水泳、天文学、医学などを学んだ。
会津・日新館
学問、武術、水泳などを仲間と学び、会津藩士としての規律を身につけた。 飯沼貞吉のこの時期は、舞台となった会津・日新館の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 会津藩士の子は十歳になると藩校日新館へ進み、漢学だけでなく剣術、弓術、水泳、天文学、医学などを学んだ。

滝沢本陣・戸ノ口原
十五歳で隊に加わり、藩主護衛から増援へ回った後、新政府軍の攻撃で退いた。 飯沼貞吉のこの時期は、舞台となった滝沢本陣・戸ノ口原の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 八月二十二日、士中二番隊は松平容保を守って滝沢本陣へ進み、その後、戸ノ口原への増援に回った。

戸ノ口堰・飯盛山
黒煙に覆われた城下を望み、仲間と自刃を図ったが、貞吉だけが命を取り留めた。 飯沼貞吉のこの時期は、舞台となった戸ノ口堰・飯盛山の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 慶応四年に編成された白虎隊で、貞吉は一歳上と申告し、数え十五歳で士中二番隊へ入ったとされる。

東京・仙台ほか
工部省・逓信関係の実務に入り、電信線と通信設備の建設・保守に携わった。 飯沼貞吉のこの時期は、舞台となった東京・仙台ほかの場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 洞門を出て飯盛山へ登った一行は、城下を覆う黒煙と遠くの鶴ヶ城を見た。

札幌・仙台
札幌で五年間通信網整備に尽くした後、仙台で七十七歳の生涯を終えた。 飯沼貞吉のこの時期は、舞台となった札幌・仙台の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 八月二十二日、士中二番隊は松平容保を守って滝沢本陣へ進み、その後、戸ノ口原への増援に回った。

福島県会津若松市
講堂、武道場、天文台、水練水馬池から、貞吉が受けた文武教育の仕組みをたどる。現在地の建物は1987年の復元施設である。
飯沼貞吉
住所福島県会津若松市河東町南高野字高塚山10
周辺
福島県会津若松市
戸ノ口原から用水洞門を抜け、城下の黒煙を見た退却経路と、白虎隊士墓域を歩く。
飯沼貞吉
住所福島県会津若松市一箕町大字八幡弁天下周辺
周辺
北海道札幌市
札幌郵便局工務課長として電話交換機、電信電話線、無線電信局の整備を監督した時期をたどる。
飯沼貞吉
住所北海道札幌市中央区南7条西1丁目周辺
周辺
特徴

会津藩士の子は十歳になると藩校日新館へ進み、漢学だけでなく剣術、弓術、水泳、天文学、医学などを学んだ。講堂、大成殿、天文台、稽古場、水練水馬池という施設は、知識と身体訓練を一つの生活に組み込む。貞吉の判断を生まれつきの忠義だけで説明せず、仲間と規律を共有した教育環境から考える必要がある。現在見学できる日新館は1987年の復元で、城西にあった幕末の建物そのものではない。
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慶応四年に編成された白虎隊で、貞吉は一歳上と申告し、数え十五歳で士中二番隊へ入ったとされる。銃、弾薬箱、胴乱、脇差、草鞋、雨具、水筒は、少年を兵士として動かす一式だった。武器を持つことと、砲煙や負傷者の中で補給を保ち、命令系統から外れずに退くことは別の技術である。装備を並べて見ると、「少年らしい勇気」という語では隠れる重量、濡れ、弾薬不足、疲労が浮かぶ。

八月二十二日、士中二番隊は松平容保を守って滝沢本陣へ進み、その後、戸ノ口原への増援に回った。農家を使った本陣、収穫前後の田畑、ぬかるむ道、粗い胸壁、弾薬箱が即席の戦場を形づくる。新政府軍の攻撃で隊は分散し、指揮官とも離れて退却した。整然とした日新館の稽古場と違い、煙で視界が切れ、命令と位置が分からなくなる野外で、少年たちは自分たちだけで進路を決めることになった。

戸ノ口原から城下へ戻ろうとした一行は、飯盛山の下を通る戸ノ口堰の洞門をくぐったと伝わる。本来は猪苗代湖側の水を農地へ送る用水施設であり、兵士の通路として掘られたものではない。暗い狭い洞門、冷たい流れ、濡れた草鞋、消えやすい灯りは、敗走で消耗した身体へさらに負担をかける。地図上の短い線では見えない水温と暗さが、戸ノ口原と飯盛山をつないだ。
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洞門を出て飯盛山へ登った一行は、城下を覆う黒煙と遠くの鶴ヶ城を見た。城そのものが焼け落ちたと全員が即断した、という単純な説明ではなく、城へ戻るか、敵中へ斬り込むかを議論したとする伝承が残る。濡れた岩場、煙で遮られる視界、脇差、水筒という条件の中で自刃に至り、貞吉だけが後に蘇生した。誰が救ったかには異説があるため、特定の救助者を断定せず、生存が本人に残した長い時間を見る。
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明治に貞雄と改名した飯沼は電信技術を学び、工部省から逓信関係の職務へ進んだ。モールス電鍵、受信機、電池、磁器碍子、ケーブル巻枠、電柱は、遠隔地の情報を線へ変える道具である。五十歳で札幌郵便局工務課長となった後は、電話交換機の更新、電信電話線の架設、無線電信局建設などを監督し、北海道各地を歩いた。白虎隊の伝達混乱を経験した少年が、後半生には通信を届かせる側で社会を支えた。
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