人物を知る

飯沼貞吉

会津藩 / 1854-1931

飯沼貞吉は、会津藩の白虎隊士として戊辰戦争に参加し、飯盛山での自刃から生き残った人物です。十五歳で戦争と敗北を経験した後、改名して通信技術の道へ進み、電信や電話の整備に長く携わりました。少年兵として知られる一方、明治以後を技術者として約六十年生きました。活動の舞台は会津若松、会津・日新館、滝沢本陣・戸ノ口原、戸ノ口堰・飯盛山に及びました。1854から1905-31までの経歴には、当時の政治制度、社会、生活環境の変化が重なっています。

軌跡

飯沼貞吉の軌跡

江戸時代明治時代
1854嘉永7・安政元1860s文久-慶応頃1868 Aug 22慶応4年8月22日1868 Aug 23慶応4年8月23日1870s-1900s明治期1905-31明治38-昭和6
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会津若松

会津藩士飯沼家の次男として生まれる


山川健次郎らと親族関係を持つ藩士家庭で育ち、日新館教育へ進んだ。

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会津・日新館

講堂、武道場、水練水馬池で文武を学ぶ


学問、武術、水泳などを仲間と学び、会津藩士としての規律を身につけた。

滝沢本陣・戸ノ口原

士中二番隊として戸ノ口原へ出陣する


十五歳で隊に加わり、藩主護衛から増援へ回った後、新政府軍の攻撃で退いた。

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戸ノ口堰・飯盛山

洞門を抜け、飯盛山で自刃後に蘇生する


黒煙に覆われた城下を望み、仲間と自刃を図ったが、貞吉だけが命を取り留めた。

東京・仙台ほか

貞雄と改名し、電信技術者として各地で働く


工部省・逓信関係の実務に入り、電信線と通信設備の建設・保守に携わった。

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札幌・仙台

北海道の通信整備を監督し、仙台で没する


札幌で五年間通信網整備に尽くした後、仙台で七十七歳の生涯を終えた。

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日本地図
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特徴

飯沼貞吉をつくったもの

文武と科学を同じ学校で学ぶをイメージした墨絵
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日新館の講堂

会津藩士の子は十歳になると藩校日新館へ進み、漢学だけでなく剣術、弓術、水泳、天文学、医学などを学んだ。講堂、大成殿、天文台、稽古場、水練水馬池という施設は、知識と身体訓練を一つの生活に組み込む。貞吉の判断を生まれつきの忠義だけで説明せず、仲間と規律を共有した教育環境から考える必要がある。現在見学できる日新館は1987年の復元で、城西にあった幕末の建物そのものではない。

十五歳の身体に兵士の役割を載せるをイメージした墨絵
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白虎士中二番隊の銃

慶応四年に編成された白虎隊で、貞吉は一歳上と申告し、数え十五歳で士中二番隊へ入ったとされる。銃、弾薬箱、胴乱、脇差、草鞋、雨具、水筒は、少年を兵士として動かす一式だった。武器を持つことと、砲煙や負傷者の中で補給を保ち、命令系統から外れずに退くことは別の技術である。装備を並べて見ると、「少年らしい勇気」という語では隠れる重量、濡れ、弾薬不足、疲労が浮かぶ。

藩主護衛から混乱した野戦へ送られるをイメージした墨絵
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滝沢本陣

八月二十二日、士中二番隊は松平容保を守って滝沢本陣へ進み、その後、戸ノ口原への増援に回った。農家を使った本陣、収穫前後の田畑、ぬかるむ道、粗い胸壁、弾薬箱が即席の戦場を形づくる。新政府軍の攻撃で隊は分散し、指揮官とも離れて退却した。整然とした日新館の稽古場と違い、煙で視界が切れ、命令と位置が分からなくなる野外で、少年たちは自分たちだけで進路を決めることになった。

農業土木の水路を退路としてくぐるをイメージした墨絵
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戸ノ口堰の洞門

戸ノ口原から城下へ戻ろうとした一行は、飯盛山の下を通る戸ノ口堰の洞門をくぐったと伝わる。本来は猪苗代湖側の水を農地へ送る用水施設であり、兵士の通路として掘られたものではない。暗い狭い洞門、冷たい流れ、濡れた草鞋、消えやすい灯りは、敗走で消耗した身体へさらに負担をかける。地図上の短い線では見えない水温と暗さが、戸ノ口原と飯盛山をつないだ。

限られた視界で帰城か突入かを議論するをイメージした墨絵
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飯盛山の岩場

洞門を出て飯盛山へ登った一行は、城下を覆う黒煙と遠くの鶴ヶ城を見た。城そのものが焼け落ちたと全員が即断した、という単純な説明ではなく、城へ戻るか、敵中へ斬り込むかを議論したとする伝承が残る。濡れた岩場、煙で遮られる視界、脇差、水筒という条件の中で自刃に至り、貞吉だけが後に蘇生した。誰が救ったかには異説があるため、特定の救助者を断定せず、生存が本人に残した長い時間を見る。

生き残った時間を通信網の仕事に使うをイメージした墨絵
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電信機

明治に貞雄と改名した飯沼は電信技術を学び、工部省から逓信関係の職務へ進んだ。モールス電鍵、受信機、電池、磁器碍子、ケーブル巻枠、電柱は、遠隔地の情報を線へ変える道具である。五十歳で札幌郵便局工務課長となった後は、電話交換機の更新、電信電話線の架設、無線電信局建設などを監督し、北海道各地を歩いた。白虎隊の伝達混乱を経験した少年が、後半生には通信を届かせる側で社会を支えた。

この人物の詩

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