人物を知る

佐久間象山

松代藩

佐久間象山を、『先覚者』『和魂洋才』という結論や髷と洋装の肖像からではなく、松代藩祐筆の筆・漢籍・算木、『海防八策』の江戸湾図と廻米帳、江戸塾の砲鋳造具・蘭書・電気実験器、吉田松陰の渡航計画図と取調書、八年の松代蟄居を支えた書物・時計・電池、京都の街路図・馬具・公用書状と1915年の遭難碑から組み立てる。海外知識を読むこと、器械を試作すること、政策へ上書すること、弟子の行動へ責任を問われることは同じではない。成功・失敗・復元・後世の顕彰を分け、幕末科学、海防、電信、下田、松代、京都の資料へつなぐ。

軌跡

佐久間象山の軌跡

江戸時代
文化8–天保101811–39天保13–嘉永21842–49嘉永2–71849–54安政1–文久21854–62文久2–元治11862–64春元治1–大正41864–1915
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松代・江戸

祐筆の筆と漢籍、和算から佐藤一斎門下と自塾へ進む


古典、文章、数量、藩文書という別技能を洋学以前の基盤として見る。 佐久間象山のこの時期は、舞台となった松代・江戸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 佐久間国忠、のち啓、号象山は文化八年(一八一一)、松代藩の祐筆を務める家に生まれた。

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松代・江戸湾・江戸

『海防八策』を上書し、海岸図、輸送、砲術を政策へ結ぶ


後年の開国論と時期を混ぜず、清の敗北後の海防政策として読む。 佐久間象山のこの時期は、舞台となった松代・江戸湾・江戸の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 天保十三年(一八四二)、海防掛老中となった藩主真田幸貫の命を受け、象山は海外事情を研究して『海防八策』を上書した。

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江戸・横浜・下田

砲鋳造、電気・電信実験、門下教育から海外渡航計画へ進む


器械の来歴と実験結果、象山の助言と松陰の実行を分ける。 佐久間象山のこの時期は、舞台となった江戸・横浜・下田の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 象山は江川英龍に西洋砲術を学び、江戸で塾を開いて勝海舟、吉田松陰らへ砲学・洋学を教えた。

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江戸拘禁・松代

密航事件に連座し、拘禁と約八年の松代蟄居を受ける


閉門の内側で続いた読書、器械修理、観察、知識交換を資料から探る。 佐久間象山のこの時期は、舞台となった江戸拘禁・松代の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 密航事件への連座後、象山は松代で約八年の蟄居を命じられ、文久二年(一八六二)に赦免された。

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松代・江戸・京都

赦免され、幕命によって京都で開国・公武合体を説く


先覚者評価だけでなく面会、書状、宿、移動という政治実務を見る。 佐久間象山のこの時期は、舞台となった松代・江戸・京都の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 元治元年(一八六四)、赦免後の象山は幕命で京都へ入り、開国と公武合体をめぐって活動した。

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京都木屋町

木屋町で死亡し、約半世紀後に遭難碑が建立される


事件の場所、1915年の碑、碑文が作った人物像を異なる時点として読む。 佐久間象山のこの時期は、舞台となった京都木屋町の場所・道具・文書を重ねると、出来事の背景と、その後の選択へつながる条件が具体的に見えてくる。 元治元年(一八六四)、赦免後の象山は幕命で京都へ入り、開国と公武合体をめぐって活動した。

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日本地図
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特徴

佐久間象山をつくったもの

藩文書を書く家で、古典の語と数量を同じ机に置くをイメージした墨絵
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松代藩祐筆

佐久間国忠、のち啓、号象山は文化八年(一八一一)、松代藩の祐筆を務める家に生まれた。筆架、硯、料紙、藩文書箱、印、漢籍、和算の算木、地図、天球儀は、文章を正確に写し、典拠を探し、数量や方角を扱う環境を示す。少年時代の天才逸話だけで後の洋学を説明せず、朱子学、漢学、和算、書法、藩の文書行政という異なる技能が同じ机で接した点を見る。象山記念館は後世の展示施設、佐久間象山宅跡は居宅跡であり、現在の公開状況も確認する。松代藩、祐筆、佐藤一斎、近世和算、藩士教育の本へ導く。

海岸線の防備を、砲台だけでなく船と米の流れから測るをイメージした墨絵
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海防八策

天保十三年(一八四二)、海防掛老中となった藩主真田幸貫の命を受け、象山は海外事情を研究して『海防八策』を上書した。江戸湾図、港、海岸線、方位磁針、規矩、縮尺、砲の射程線、異国船の船影、廻米船と運送帳、封印した上書は、海防が砲台配置だけでなく、情報収集、艦船、訓練、兵器製造、江戸への食料輸送を含む政策だったことを示す。後年の開国論を1842年へそのまま遡らせず、清の敗北と幕府海防政策の時点に置く。野毛山の碑は後世の顕彰物で、上書執筆地や砲台遺構ではない。

蘭書の図を、鋳型・火花・導線で試せる手順へ移すをイメージした墨絵
03

江戸塾

象山は江川英龍に西洋砲術を学び、江戸で塾を開いて勝海舟、吉田松陰らへ砲学・洋学を教えた。砲身の鋳型、炉、坩堝、ノギス、火薬材料瓶、蘭書、測量器、電池、導線、コイル、電気治療器、指字電信機の機構は、翻訳を実験と製作へ移す仕事を示す。『日本初』という先取権だけを競わず、どの器械が本人製作、共同製作、復元、後世の展示品か、実験がどの程度再現できたかを確認する。砲術は破壊技術でもあり、海防の必要論と軍備拡張の負担を同時に見る。幕末科学、蘭書翻訳、鋳造、電気治療、電信史へつなぐ。

海外を知る計画が、小舟と国禁と取調書にぶつかるをイメージした墨絵
04

吉田松陰

嘉永七年(一八五四)、門下の吉田松陰と金子重輔は下田でペリー艦隊への乗船を求め、失敗後に自首した。下田港図、弁天島、小舟の寸法、潮と風、方位磁針、旅装、投夷書、拘禁記録、江戸移送文書は、海外視察の構想が国禁と外交交渉へ衝突した過程を示す。象山自身が下田の小舟へ乗ったように描かず、助言・計画への関与と、松陰らが実行した夜の行動を分ける。象山は事件に連座して拘禁され、のち松代で蟄居した。弁天島、拘禁跡、伝馬町、松代を一地点にまとめず、下田開港史と密航事件資料へ導く。

閉じた門の内側で、読む・直す・測る作業を止めないをイメージした墨絵
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松代蟄居

密航事件への連座後、象山は松代で約八年の蟄居を命じられ、文久二年(一八六二)に赦免された。閉じた門、書物、写本、時計機構、ガラス管、電池、導線、コイル、地震計様の器械、ドライバー、鑢、修理部品は、政治活動を制限されても読書、製作、観察、来訪者との知識交換が続いた可能性を具体化する。展示で『地震予知器』などと呼ばれる器械は、名称、用途、製作年代、現物・復元の別を確認する。高義亭は蟄居中に住した建物、宅跡と記念館は別の由来を持つ。蟄居を単なる沈黙や精神修養にしない。

開国意見を運ぶ公用移動が、街路と後世の碑に残るをイメージした墨絵
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京都木屋町

元治元年(一八六四)、赦免後の象山は幕命で京都へ入り、開国と公武合体をめぐって活動した。京都街路図、馬具、携帯文箱、面会予定、意見書、宿札は、洋装や騎馬という外見より、公家・幕府・諸藩の間を移動して意見を伝える実務を示す。同年七月十一日、木屋町で襲撃され死亡したが、画像は襲撃者や遺体を描かない。現在の象山先生遭難碑は1915年建立で、碑文は碑の東約十五メートルを遭難地とする。寓居、移動経路、遭難地、後世の碑を区別し、開国反対派の政治状況と暴力も検証する。

この人物の詩